
ジャズピアノのトランスクリプション、つまり耳コピは、音源を五線譜に書き起こす作業だけではない。音源のフレーズを聴き、模倣し、度数で分析し、別のキーへ移し、最終的に自分のアドリブの語彙へ変換する一連の工程である。譜面はその工程の一部にすぎない。
五線譜は音高と大まかなリズムを保存する。しかし、スイングの微細な揺れ、音価の処理、アクセントの位置、装飾音の速度、鍵盤への打鍵圧までは完全に保存できない。したがって、採譜の終点を譜面の完成に設定すると、最も重要な情報を失ったまま練習を終えることになる。
トランスクリプションが音符以上のものを獲得させる理由
耳コピの対象は、通常の楽譜に記載された音高列ではない。音源の中で、音がどのように時間へ配置され、コードに対してどの距離を保ち、次の音へどの方向で進んだかである。
たとえば、G7上でA♭を鳴らした場合、その音は単純な外音ではない。Gに対する♭9であり、Cmへ進むドミナントの緊張を形成する度数である。さらにA♭からG、あるいはA♭からBへ進むかによって、同じ音高でも機能が変わる。音符だけを抜き出すと、この方向性が消える。
音源から取得すべき四つの情報
トランスクリプションでは、少なくとも次の四層を分離して聴く必要がある。
- 音高
どの音が鳴っているか。コードトーン、テンション、クロマチック・アプローチを区別する。
- リズム
どの拍に置かれたか。表拍か裏拍か。フレーズの開始が1拍目なのか、4拍目の裏なのかで、同じ音列の性質は変わる。
- アーティキュレーション
音をつなぐのか、切るのか。アクセントをどこへ置くのか。ゴースト・ノートに近い弱い音が存在するのか。
- ハーモニー上の機能
各音がルート、3度、5度、7度、テンション、経過音のどれにあたるか。ここで度数アナライズが必要になる。
五線譜に書くのは第一層と第二層の一部である。第三層は記譜によって近似できるが、完全ではない。第四層は、コード進行と照合しなければ得られない。
耳コピの対象は音符の列ではない。音符がコードに対して持つ度数と、時間に対して持つ位置である。
相対音感は絶対条件ではない
トランスクリプションに絶対音感は必須ではない。相対音感があれば、基準音から音程を測定し、フレーズを構成する音を特定できる。むしろ実践では、音名を瞬時に当てる能力より、コード進行の中で音がどの方向へ解決するかを把握する能力のほうが有効である。
Cm7上でE♭が鳴ったとき、それをE♭という音名だけで覚える必要はない。Cに対する♭3、つまりマイナー・コードの3度として認識する。この認識であれば、Dm7♭5上のF、Fm7上のA♭へ移植できる。音名の記憶はキーに依存するが、度数の記憶は構造に依存する。
ただし、相対音感だけで採譜速度が決まるわけではない。和声の知識があると、候補音を絞り込める。G7上でB♭とBのどちらが鳴っているか迷った場合でも、前後の音、コードの性質、解決先を確認すれば判定しやすい。ボイシング、テンション、スケールの知識は、耳を補助する検索条件として機能する。
五線譜に書き起こすことの限界
耳コピ譜面には、記録媒体としての限界がある。特にジャズでは、記譜上の8分音符と、実際に演奏される8分音符が一致しない。
スイングは単純な比率ではない
スイングを「長い音と短い音の組み合わせ」と定義することはできる。しかし、実際の演奏における比率は固定されない。テンポ、フレーズの位置、演奏者の発音、ベースとドラムの配置によって変化する。
譜面上で2つの8分音符を均等に記載しても、音源では前半が長く、後半が短く聴こえる場合がある。逆に、速いテンポではほとんど均等に近づくこともある。これを単純に付点8分音符と16分音符へ置き換えると、実際のニュアンスから離れる可能性がある。
したがって、採譜譜面はスイングの比率を確定する文書ではない。音の配置を確認するための骨格である。最終的なリズムは、譜面ではなく音源との反復比較によって決定される。
アーティキュレーションは譜面から抜け落ちる
同じCの音でも、打鍵の強さ、前の音との接続、音価、ペダルの有無によって機能は変わる。特にピアノの単音フレーズでは、音を短く切るだけでリズムの重心が変化する。
採譜時には、次の項目を別々に記録する必要がある。
1. 音符の開始位置
2. 実際の音価
3. 次の音への接続
4. アクセントの位置
5. 装飾音の有無
6. 左手のボイシングとの時間関係
装飾音を本音符と同じ大きさで書くと、主旋律との階層が不明になる。逆に、すべてを小さな装飾音として処理すると、実際には拍の中核を担っていた音を軽視することになる。この判定には、譜面よりも音源の反復聴取が必要である。
タッチは採譜できない
鍵盤のタッチは、五線譜へ完全に変換できない。音の立ち上がり、打鍵後の減衰、和音内の音量差は、演奏者の手と楽器の応答に依存する。
ここで採譜を諦める必要はない。譜面化できない情報を、模倣の対象として別管理すればよい。フレーズを弾くとき、正しい音高を確認した後に、音源と同じ発音位置、音価、アクセントを再現する。譜面は視覚情報、音源は聴覚情報である。どちらか一方で代替することはできない。
ジャズピアノのトランスクリプションのやり方
採譜は、長いソロを最初から最後まで処理する必要はない。最初の対象は、2小節から4小節程度の完結したフレーズでよい。音数の多い難解なラインより、コード進行への対応が明確で、リズムを再現しやすい素材のほうが、アドリブへの転用率は高い。
まず音源を短く区切る
再生区間を短く設定する。フレーズの開始と終了が明確な単位を選ぶ。1コーラス全体を繰り返し聴いてから細部へ入る方法は、情報量が多すぎる。耳が音源全体の印象に引きずられ、局所的な音高を判定しにくくなる。
最初に確認するのは、次の項目である。
- フレーズがどのコード上で開始するか
- フレーズがどのコードへ解決するか
- 最初の音が拍のどこに置かれているか
- 最後の音がコードトーンかテンションか
- 左手またはベースが示す根音と、右手の音列の関係
音高の特定を始める前に、フレーズの和声的な範囲を確定する。これにより、無関係な音名の候補を減らせる。
低速再生は音高確認のために使う
低速再生は有効である。ただし、遅くした音源をそのまま完成形として模倣してはいけない。テンポを下げると、発音の連続性や音価の比率が変形して聴こえることがあるためである。
低速再生の用途は、主に以下の四つに限定する。
- 速いパッセージの音数を分離する
- 装飾音と本音符を区別する
- 拍の位置を確認する
- 左右の手の音を分離して聴く
音高が確定したら、通常速度へ戻して確認する。低速で弾けることと、通常速度でグルーヴを維持できることは別の能力である。
最初は歌うか、鍵盤で探す
音を聴いた直後に鍵盤を探す方法だけでは、指の形に聴覚が従属する。先に声、あるいは頭の中で音程を再現し、その後に鍵盤へ移すほうが、相対音感の訓練になる。
音名を言えなくてもよい。上行か下行か、半音か全音か、コードトーンへ解決しているかを確認する。たとえば、G7上でA♭–Gと動くなら、♭9からルートへの半音解決として記憶できる。キーが変わっても、この構造は維持される。
譜面化の前にリズムを固定する
音符を並べる前に、リズムだけを確認する。机を叩く、手拍子をする、1音だけでリズムを弾く。ここで拍位置が曖昧なまま音高を追加すると、後で全体を修正することになる。
特に注意すべきなのは、フレーズが小節線をまたぐ場合である。4拍目の裏から始まるラインを、次の小節の1拍目から始まるように記譜すると、音高が合っていてもアドリブの推進力は失われる。
採譜では、音符の正しさより先に時間位置を確定する。ジャズのフレーズは、音高列ではなく時間上の形として認識する必要がある。
度数アナライズがアドリブへの還元を決める
採譜したフレーズを自分の即興演奏へ使うには、音名を度数へ変換する必要がある。ここでいう度数は、キーに対する度数と、コードに対する度数の二種類を含む。
たとえばCメジャーのⅡ-Ⅴ-Ⅰ、Dm7–G7–CM7上に、次のような音の動きがあるとする。
- F–E–D–B
- C–B–B♭–A
- A–A♭–G–E
この音列を音名のまま覚えても、移調には弱い。コードとの関係を分解すると、別の情報が現れる。
最初のF–E–D–Bは、Dm7上では3度、9度、ルート、G7へ向かう7度など、配置によって複数の機能を持つ。G7上でBへ到達するラインなら、3度への解決として処理できる。最後のC–B–B♭–Aは、コードトーンとクロマチック・アプローチの組み合わせとして分析できる。
重要なのは、すべての音を一つのスケールへ押し込まないことである。ジャズのラインは、コードトーン、スケール音、クロマチック・アプローチ、エンクロージャー、経過音によって構成される。スケール名だけで説明すると、音の進行方向が消える。
マイナーⅡ-Ⅴ-Ⅰを度数で分解する
CマイナーのⅡ-Ⅴ-Ⅰを例にする。
| 和音 | 基本構成 | 代表的な緊張 | 解決上の役割 |
|---|---|---|---|
| Dm7♭5 | ルート、♭3、♭5、♭7 | 9度、11度 | G7へ向かう前置和音 |
| G7alt | ルート、3度、♭7 | ♭9、♯9、♭5、♯5 | Cマイナーの主和音へ解決 |
| Cm7 | ルート、♭3、5度、♭7 | 9度、11度、6度 | フレーズの着地点 |
G7alt上でA♭を使う場合、Cmへの解決を前提にした♭9として扱える。B♭は♯9としても、短3度方向の色彩としても機能する。D♭は♭5、E♭は♯5として、いずれもCmへの進行に対する緊張を形成する。
ただし、同じ音が常に同じ意味を持つわけではない。G7上のE♭が、直前のDから半音で進む経過音なのか、コードの♯5として長く保持されるのかで、処理は変わる。度数アナライズは、音名の置き換えではない。音の持続時間と解決先まで含めて、機能を定義する作業である。
コードトーンへの着地を追跡する
アドリブで機能するフレーズは、経過音の数より着地点の精度で決まる。トランスクリプション後は、各コードの3度と7度へどのように進んでいるかを確認する。
Ⅱ-Ⅴ-Ⅰでは、Dm7の3度F、G7の3度B、Cm7の3度E♭が、和声の性質を明確にする。G7の7度FからCm7の3度E♭へ進む動きも、半音または全音の進行として分析できる。ライン全体が複雑に聴こえても、要所には少数のコードトーンが配置されていることが多い。
この骨格を抽出すると、フレーズを単純化できる。
1. 各コードの3度と7度を特定する。
2. それらへ着地する音を残す。
3. 間にあるアプローチ音とクロマチック音を分類する。
4. 元のリズムを維持したまま、音数を減らして弾く。
5. その後、採譜した音列を再追加する。
この順序で処理すると、フレーズは暗記対象から構造体へ変わる。
フレーズを移調できない場合、記憶されているのは音の構造ではなく、指の経路である。
他のキーへ移調する意味
移調は、単なる指の運動練習ではない。採譜したラインがコード機能に基づいているかを検証する工程である。
Cメジャーで弾けるフレーズをD♭メジャーへ移すとき、すべての音を半音上げるだけでは不十分である。コード進行の種類、テンションの関係、着地点の度数を維持しなければならない。
たとえば、G7上の♭9から3度へ解決するフレーズを、A♭7上へ移す場合、♭9から3度へ向かう構造を保つ。音名は変わるが、ドミナントに対する緊張と解決の関係は同一である。
移調の段階
移調は次の順序で行うと処理しやすい。
- 近接キーへの移動
原曲キーから半音または全音上へ移す。指の形が変わるため、運指の依存が露呈する。
- 五度圏上の移動
Ⅱ-Ⅴ-Ⅰを別の調へ移す。和声機能を維持しながら、黒鍵と白鍵の比率を変える。
- 同一コード進行内での反復
同じフレーズを、曲中の複数のⅡ-Ⅴ-Ⅰへ適用する。コードの転回やテンションの違いを確認する。
- 別のスタンダードへの適用
曲名に依存せず、同じ和声単位を探す。定番進行の中でフレーズを再配置する。
移調後に音が濁る場合、原因は運指よりも分析不足にあることが多い。元のフレーズが、実際には特定のキーのスケール断片ではなく、1つのボイシングに依存していた可能性がある。
リズムは移調しても変えない
移調時に音高だけでなくリズムまで変えると、何を検証しているのか不明になる。最初はリズムを固定する。4拍目裏から始まるラインなら、すべてのキーで4拍目裏から始める。
その後、同じ音高構造を別のリズムへ変形する。短いフレーズをそのまま再生するだけでは、引用に近い演奏になる。リズムを変え、開始位置を変え、最後の着地点を変えることで、フレーズは語彙として機能し始める。
効率的な採譜を支えるハーモニー知識
耳コピの速度は、耳の性能だけでは決まらない。和声を知っているほど、音源内で起きている可能性を絞り込める。
G7の上で、A♭、B♭、D♭、E♭が連続して鳴った場合、それらを無秩序な外音として扱う必要はない。G7altのテンション群として整理できる。さらに、Bへ解決するなら、ドミナントの3度へ向かうラインとして理解できる。
先にコード進行を確認する
採譜する前に、左手のボイシングとベースラインからコード進行を確認する。コードネームが不明なまま右手だけを採ると、同じ音列を誤った和声へ配置する可能性がある。
特にピアノ・ソロでは、左手がルートを弾かないルートレス・ヴォイシングが多い。左手に3度と7度、9度や13度が置かれている場合、ベースが示す根音を別に聴かなければならない。ルートが聴こえないことは、ルートが存在しないことを意味しない。
コード進行の確認では、次を順に見る。
- ベースの根音
- 3度によるメジャー/マイナーの判定
- 7度によるドミナント/メジャー7の判定
- 9度、11度、13度などのテンション
- 次のコードへ半音で解決する音
この順序で和声を整理すると、右手のフレーズに含まれる音の候補が減る。
スケールは結果として使用する
スケール理論は必要である。ただし、採譜したフレーズをスケール名へ一括変換すると、フレーズの構造が失われる。
ブルーノート・スケールは、短3度、減5度、短7度などの音を含む素材として有効である。しかし、スケールを上行・下行するだけでは、ジャズの語法にならない。どの音を拍の強い位置に置き、どの音を経過音として処理するかが必要である。
ビバップ・スケールも同様である。コードトーンとクロマチック音の配置を、フレーズの拍構造と一体で扱う必要がある。スケールは音の候補を与える。フレーズは候補音の優先順位と時間配置を与える。この二つは同一ではない。
レッド・ガーランドとウィントン・ケリーを教材にする場合
初学者向けのトランスクリプション素材として、レッド・ガーランドの「C・ジャム・ブルース」や、ウィントン・ケリーの「オータム・リーブス」のアドリブ・ソロが挙げられる。これらを選ぶ理由は、単に有名だからではない。短い動機、明確なブルース感覚、コード進行との対応を追いやすいラインを抽出しやすい点にある。
ただし、演奏者の音を丸ごと複製することが目的ではない。次の単位へ分解する必要がある。
レッド・ガーランドから見る短い動機
ブルース系のフレーズは、数小節単位の動機が反復され、リズムや終止音を変えながら展開されることが多い。採譜時には、音符を一度に覚えず、動機の核を抽出する。
たとえば、短3度からルートへ進む動き、5度から♭5を経由して4度へ進む動き、ブルーノートを短く挿入してコードトーンへ戻る動きなどである。これらを度数で記録し、12キーへ移す。
重要なのは、同じ動機を毎回同じ音価で弾かないことである。原音源のリズムを一度正確に模倣した後、開始位置を変える。1拍目から始めた動機を4拍目裏から始める。小節線をまたがせる。最後の音だけを3度からルートへ変える。こうして、素材を引用から語法へ変換する。
ウィントン・ケリーから見るⅡ-Ⅴ-Ⅰ
「オータム・リーブス」では、Ⅱ-Ⅴ-Ⅰの連続を分析しやすい。採譜したラインの各音を、コードごとに分割する。
Dm7上では、ルート、♭3、5度、♭7を中心に確認する。G7上では、3度と7度へ進む経路を探す。CM7上では、3度または6度へ着地するのか、次のマイナー・コードへ向かうためにテンションを残すのかを判定する。
同じ8分音符の連続でも、次の二つは異なる。
- スケール上を順番に移動して、コードトーンへ着地するライン
- コードトーンを先に設定し、上下からクロマチックに囲むライン
前者は音階的で、後者は包囲構造を持つ。譜面上では近い形に見えるが、アドリブでの運用方法は異なる。
採譜後に行う再構築
採譜したフレーズを演奏へ還元する工程は、次の五段階で整理できる。
1. 音源と同じ音高・リズムで弾く
この段階では創作を加えない。原音源の時間配置とアーティキュレーションを記憶する。
2. 度数を記入する
キーに対する度数だけでなく、各コードに対する度数を記録する。特に着地点を明示する。
3. フレーズの骨格を抜き出す
コードトーン、主要テンション、クロマチック・アプローチを分類する。経過音をすべて同じ重要度で扱わない。
4. 別のキーへ移す
まず全音域を維持して移調する。その後、オクターブ、音域、開始位置を変更する。
5. 別のコード進行へ適用する
同じ和声機能を持つ場所へ配置する。Ⅱ-Ⅴ-Ⅰのためのラインを、関係のないメジャー7上へ無理に置かない。
この工程を省いて暗記だけを行うと、フレーズは特定の曲の特定の小節に固定される。暗記は必要だが、暗記だけでは転用能力にならない。
フレーズ集を使う場合の扱い
ピアノ用のフレーズ集は、素材の探索には使える。しかし、書かれたフレーズを上から順に弾くだけでは、耳とリズムが分離する。
フレーズ集から採用する場合も、次を音源で確認する。
- そのフレーズがどのテンポで機能するか
- 8分音符がどの程度スイングするか
- どの拍から始まるか
- コードトーンへどのように解決するか
- どの音域で最も明瞭になるか
- 左手のボイシングと同時に弾いたとき、テンションが衝突しないか
書かれた譜面を正確に弾けても、フレーズの発音が音源と異なれば、獲得したのは情報だけである。情報を演奏へ変換するには、聴覚による照合が必要になる。
1コーラスを採るべきか、短いフレーズを採るべきか
熟練者やプロでも、音数の少ない16小節の採譜に一定の時間を要する。1コーラスであれば、採譜そのものに加えて楽譜入力、修正、反復確認の時間が発生する。初学者では、2小節の処理に長時間かかる場合もある。
この事実は、速度が遅いことを問題にしているのではない。1コーラスを一度に処理すれば、分析と模倣が浅くなる可能性があるということである。
短いフレーズを優先する条件
最初に選ぶフレーズは、次の条件を満たすものがよい。
- コード進行が明確である
- フレーズの開始と終了が聴き取れる
- リズムに特徴がある
- 3度や7度への着地が確認できる
- 他のキーへ移しやすい
- その曲以外にも存在する和声単位である
難易度を音数だけで判断してはいけない。音数が少なくても、裏拍に細かく配置され、装飾音が多ければ処理は難しい。反対に、音数が多くてもスケールとコードトーンの関係が明瞭なら、分解しやすい場合がある。
1コーラスを採る意味
一方で、短いフレーズだけでは演奏全体の構成を理解できない。1コーラスを採る練習には、動機の提示、反復、変形、音域の上昇、休符の配置、終止の作り方を学ぶ利点がある。
ただし、1コーラスを採譜する場合も、最初から完成譜を作る必要はない。まず音源を聴き、フレーズの境界を区切る。次に、重要な動機と終止だけを抽出する。最後に細部を補う。この順序なら、全体構造を保ちながら局所分析へ進める。
左手と右手を分離しない
ジャズピアノのアドリブは、右手の単音ラインだけで成立しているわけではない。左手のルートレス・ヴォイシング、ベースとの関係、ペダル、リズムの空白が、右手の音の意味を決める。
右手のフレーズを採譜した後、左手の和音を別に確認する。特に、右手が♯11や♭9を使っている場合、左手のヴォイシングに同じ音が含まれるかどうかで、響きの密度が変わる。
代表的な代替ヴォイシングの考え方
採譜した右手ラインを支える左手は、固定する必要がない。コード機能を保持したまま、次のように置き換えられる。
- 3度と7度のみ
和音の性質を最小限で示す。右手のテンションを空けやすい。
- 3度、7度、9度
ルートを省略したルートレス・ヴォイシング。右手のラインとの接続が滑らかになる。
- 7度、3度、13度
ドミナント上で、3度と7度の機能を維持しながら明るいテンションを加える。
- 3度、♭7、♭9
オルタード・テンションを含むドミナント。右手の♭5や♯5と重複する場合は音域を分ける。
- 4度堆積型のヴォイシング
3度を直接示さず、モーダルな響きを形成する。機能和声が必要な箇所では、ベースと右手の解決で和音の性質を補う。
ここでいう代替は、どのボイシングでも使えるという意味ではない。右手のフレーズに含まれるテンションとの衝突を確認し、音域を調整する必要がある。
耳コピをアドリブへ変える練習手順
日々の練習では、採譜、模倣、分析、移調、応用を別々の作業にしない。ただし、各段階の目的は混同しない。
採譜時
音源を短く区切り、リズムを先に確定する。音高は低速再生で確認する。譜面に書けないタッチや発音は、音源を直接聴いて再現する。
模倣時
鍵盤上で正しい音を鳴らすだけでは不十分である。音源と同じ拍位置、音価、アクセント、休符を再現する。音源を止めてから弾く方法と、音源に重ねて弾く方法を併用する。
分析時
各音をコードに対する度数へ変換する。ルート、3度、5度、7度、テンション、経過音を分類する。フレーズの核がどこにあるかを確認する。
移調時
全キーへ機械的に移す前に、2つか3つのキーで構造を確認する。移調後に弾けない場合、運指だけでなく度数認識を再確認する。音名を覚えていた場合、キーが変わった時点で記憶が崩れる。
応用時
元のフレーズをそのまま置くのではなく、次のいずれかを変更する。
- 開始拍
- 音域
- 最終音
- リズム
- 音数
- コードトーンへの着地点
- 左手のヴォイシング
この変更によって、フレーズは固定された引用から、可変の素材になる。
トランスクリプションで起きる典型的な失敗
譜面を完成させて練習を終える
採譜譜面が完成すると、作業を達成した感覚が生じる。しかし、譜面の完成はアドリブ習得の開始点である。音源との比較、度数分析、移調、応用が残っている。
音名だけで覚える
C、E♭、G、A♭という音名の列は、Cマイナーでは機能を持つ。しかし、Dマイナーへ移すと、同じ音名は別のコードとの関係を持つ。移調できないフレーズは、構造化されていない。
スケールを弾けば同じになると考える
同じスケールを使っても、拍位置と着地点が違えばフレーズは別物である。アドリブでは、使用可能な音の集合より、どの音を強拍へ置くかが問題になる。
音源を聴かずに譜面だけを反復する
譜面だけを見て練習すると、記譜上の均等な8分音符へ音が矯正される。音源が持つ微細な時間差、アクセント、休符の長さが失われる。
長すぎる素材を選ぶ
1コーラスの完全採譜は有効だが、すべての素材を長くする必要はない。短いフレーズを深く処理し、複数のキーと進行へ移植するほうが、アドリブの語彙としては運用しやすい。
最終的な評価は「弾けるか」ではなく「変形できるか」
トランスクリプションの成果は、原音源を再現できるかだけでは判定できない。次の条件を満たせるかで判定する。
- 元のテンポと低いテンポの双方で演奏できる
- 音源なしでフレーズを開始できる
- 3つ以上のキーで構造を維持できる
- Ⅱ-Ⅴ-Ⅰの別の位置へ適用できる
- リズムを変えても着地点を失わない
- 音域を変えてもアーティキュレーションを維持できる
- 左手のルートレス・ヴォイシングと衝突しない
- フレーズの一部だけを取り出して新しいラインを作れる
ここまで処理して初めて、コピーした素材は自分のアドリブへ還元される。
譜面化には明確な価値がある。音高、リズム、構造を視覚化し、記憶を安定させる。しかし、五線譜は音源の代替ではない。スイング、タッチ、発音、時間の圧力は、音源を聴き、身体で模倣しなければ獲得できない。
ジャズピアノのトランスクリプションのやり方を一つに定義するなら、次のようになる。短いフレーズを採り、リズムを固定し、度数へ分解し、コードトーンへの解決を確認し、別のキーと進行へ移し、最後に変形する。音符は入口である。アドリブに必要なのは、音符の背後にある度数と時間構造である。
代替可能なヴォイシングは、3度と7度、3度と7度に9度を加えたルートレス型、ドミナントの♭9・♯9を含むオルタード型、4度堆積型に分類できる。どの形を選ぶかは、右手のテンション、ベースの根音、次のコードへの声部進行によって決定する。フレーズも同じである。形を覚えるのではなく、構造を保持する。そこから変形が始まる。
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